生まれたときからスマートフォン、YouTube、ゲームがある。人類史上、初めてこんな環境で育っている今の子どもたち。幼児期にタブレットを使い、小学生でゲームを覚え、中学生になるころにはSNSに入っていく。この世代(の脳)が大人になったときどうなるのか、まだ誰も知りません。データが少しずつ出始めてはいるものの、私たち人類を使った実験が今まさに進行中です。
私が育った時代と違う部分は、固定電話(遠くへかければかけるほど料金が高い)、テレビ(放送時間が決まっている)、スーパーマリオブラザーズ(そのゲームしか遊べないカセット)…どれも終わりがあって、現代のツールの決定的な差は「無限性」です。無限にコンテンツが続き、自分の反応に合わせて最適化されたものが次々と提示される。構造的に「やめにくい」設計の中で、自律性を発揮することは、昔とは桁違いに難しくなっています。
「わかっているのにやめられない」という事実を知る
Web制作の仕事での経験からいうと、ネットのコンテンツは少しでも長く滞在してくれるように設計されています。おすすめの動画やいいねの通知、全てが意図的に作られた仕掛けでプラットフォーム側の収益につながる仕組みになっています。「私たちをできるだけ長く画面の前にいさせること」がビジネス上のゴールになっているわけです。
私の子どもたちはまだスマホのない時代に育ちました。娘に高校3年生の終わりころ持たせたとき「なんか疲れる」と言っていたのを覚えています。自分が操作しなくても常にLINEが流れてくる。常時接続の消耗を、体(脳)が感じ取っていたのだと思います。今の子どもたちはその状態がデフォルトの生活になっていますから、疲れていたとしても慢性的になって自覚症状すらないかもしれません。
大人の私でさえ、キラキラしたYouTubeを見ると何となく疲れることがあります。見終わったあとに、何かが解決したわけでもなく、充実したわけでもなく、時間だけ消費した…みなさんもそんな経験ありませんか?
受動的な時間は、思考の筋トレになっていない
YouTubeやテレビを見ている間、脳は情報を受け取っています。体に例えると、筋肉を動かしているのではなく、温泉に浸かったりマッサージを受けているようなイメージでしょうか。つまり癒しやリフレッシュにはなるが、筋トレにはならない。
学校の授業でさえ、「聞くだけ」になっているとしたら同じことです。自分で問いを立て、考え、言葉に起こすときに思考力を使います。答えがすぐ出なくても考え続けるとき、それは少し苦しいですが、だからこそ筋肉になる。そしてせっかくついた筋肉は、継続しなければすぐになくなってしまうこと、オンオフが大事なところも、筋トレをしている人ならよく知っていると思います。
デジタルの砂糖と脳の発達
では、ゲームやYouTubeはどのくらいにするべきなのか、それとも完全に「悪」なのか。
それは「砂糖」に似ているかもしれません。砂糖がなかった時代はともかくとして、世界に広まってからというもの、今ではすっかりなくてはならないものになっていますね。と同時に、成人病など健康を脅かす存在でもあります。ようは、バランスの問題だと思います。自律的に適度に摂取するのか、依存してしまうのか。
じゃあどのくらい使わせたらいいのか、悩む親は本当に多いと思います。子どもに「砂糖や高カロリーなものを好きなだけどうぞ」という親はいないでしょうから、これは健全な悩みですね。
一方で、小さなうちから与えてしまう、または長時間させることが、発達中の子どもの脳にとってどんな影響があるのか。使い方にもよりますが、脳(前頭前野)の働きは停滞します。脳は使えば発達し、使わなければ発達しないという性質がああるため、前頭前野を使わない状態が続くと、その発達に悪影響が及ぶ可能性も指摘されています。
脳のことをまず考えて
もちろんゲームにしろYouTubeにしろ、それがきっかけで本当の好奇心に火がつくことだってあるでしょう。うまく使いこなせる人に育てたいものです。
しかし甘いものを食べ続けたり、ゲームやネットを長時間し続けることで報酬系が強い刺激に慣れてしまう(ドーパミンが過剰に放出され続ける)と、どうなるか。スモールステップによる少量のドーパミンでは脳が反応しなくなる、つまり「粘り強く努力しなくなる」ということにつながりかねません。
「我慢できない」「すぐ飽きる」「やる気が出ない」などは、本人の意志の弱さや性格ではなく、環境によって作られた今の脳の状態なのかもしれません。
だとしたら、日常の中で「ちょこちょこ我慢する」習慣をつけることは、単なる管理ではなく、生きる上で役立つスキル(自律性)を育てることだと私は思います。大切なのは、朝起きてすぐに触らない(洗顔や食事が先)、トイレやお風呂には持ち込まない(ながら作業をしない)、晩御飯のあとはおしまい、という常識的なこと。お菓子と同じように、いつ・どれだけ・どんなふうに、それを決めるのは親の役割です。
その家の価値観が教育になる
スクリーンタイムをどう扱うか、その判断自体がすでにその家の教育になっています。ルールを決めようとするとき、「なぜそうするのか」「本当にこれでいいのか」親は自分に問わざるを得ません。その問いこそが親自身の価値観を育てていくのではないでしょうか。
「こういう大人になってほしい」とか「うちはこういうことは許しません」とか、それぞれの家訓のようなものは、家庭によって違います。食料品を買うときに「これは子どもの体に良いものか」どうか吟味する、「こういう言葉遣いはしないでほしい」など、家庭それぞれの決め事があるでしょう。その家の教育方針があり、人をつくっていく。世間の基準や流行に流されるのではなく、目の前の子どもをよく観察し、親自身の価値観に基づき、親自身が探究し、行動する。それが「教育」になっているのだと思います。


















